私のエゴ
2025/02/06 01:23:14
家の階段から落ちて脊髄損傷で生死を彷徨って
なんとか生き延びた養母が事故と共に失ったのは
声(気管切開をし人工呼吸器装着)
食(嚥下が上手くできず口から物が取れなくなった)
歩行(脊髄損傷で下半身完全麻痺)
認知(コロナでの長期入院面会制限により認知症に)
あれから6年の月日が経ち
昨夜 永眠しました
風俗伝記でも話していますが
私を3歳の時に養子縁組をして
大切に大切に育ててくれた母の【死】を
私は受け入れる事は絶対出来ない!と
思っていたし
母がこの世からいなくなる=私も生きていけない…
そのくらい凄い【母ロス】に陥ると思っていました
私が母の死を受け入れるのに
6年という月日が必要だったから
命の危機を何度も乗り越え
今まで生き続けてくれたんだと思います
亡くなる3日前まで私は意識朦朧としていた
母にずーっと耳元で
「お母さんひ孫の顔見るまで絶対
逝かないで!頑張って元気になって!三途の川を渡っちゃダメだよ!目を開けて!生きてお願い!」
そんな言葉ばかりを言っていました
亡くなる当日
母の瞳孔は開いており尿も出なくなり
全身に浮腫がではじめて爪も紫(チアノーゼ)
その姿を見て母にかけた言葉は
「お母さん今まで沢山頑張ってくれてありがとう
私は大丈夫だから…
もう楽になって
なかなか楽にしてあげられなくてごめんね
お母さんの子供になれて私は世界一幸せだった
大好きなお母さん
ありがとう、ありがとう、ありがとう」と
最後まで涙を堪えてきちんと声に出して
伝えれた瞬間 目から涙が溢れ出しました
その後二人の孫がそれぞれ10分ずつ
お婆ちゃんと二人きりになり
想いを伝える時間を作った
伝え終えた瞬間
母の血圧が測れなくなり
心拍は30.20....10...心臓が停止した
私と孫は取り乱すこともなく母の手を握り
静かに温かい気持ちで母の死を受け入れた
あの瞬間は不思議な感覚だった
大切な人を亡くしたのに辛さや悲しみより
皆んなが母に感謝と
6年の闘病生活の労いの気持ちを持てたと同時に
母の愛を凄く感じた瞬間でもありました
今になって思う
育ててくれた養母に対して
私は常に【親孝行】したいと思い生きてきてましたが
母は最後に【子孝行】【孫孝行】してくれたのだと
母は自分が死ぬ時に皆んなを悲しませるのではなく
家族に後悔を残させない生き方(死に方)を
してくれたのです
やっとお母さんを看取る覚悟が出来た日が
亡くなった日の朝…
そしてその夜…安らにあの世に旅立ちました
子供(私)のエゴで延命処置をし命を長引かせて
母を苦しめてしまったかもしれない
何度も何度もあの世に行かせてあげれたら
お母さん楽になるだろうに…と思ってはいたのに
心では分かっていても私は延命をし続けた
母離れ出来ない弱い弱い子供で
親不孝者だったかもしれない
でも例え意識がなくてもどんな姿で
あっても病院に行けば
母に会える、触れれる、話しかけられる
それだけでよくて母の側にいれることが
私の生き甲斐であり幸せだったのです
明日は6年間お風呂に入る事も出来なかった母に
最後に湯灌(ゆかん)
お風呂にいれてあげることができます
葬儀屋さんにお願いして
私達も湯灌介助に参加させていただきます
お化粧品も揃えて
母に似合う新しい洋服も買って来ました
それが終わったら火葬です
私はもう大丈夫です!
最後のお別れは笑顔で感謝の気持ちをしっかり
込めて母を見送りたいと思います
母の状態が不安定で早退したり欠勤したりで
お客様やスタッフの皆様にご迷惑ご心配をおかけしましたこと心よりお詫び申し上げます